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昔話2

  • kashiwagijunya
  • 2017年6月22日
  • 読了時間: 2分

梅雨に入り、爺さんと資金の出資者にもだんだんと焦りの色が見え始めました。もっと早く焦って欲しかったのですが。

彼らは僕らに”農場に住め”といい始めました。なんでそうなるの?という思いでしたが、僕らは廃車になるボロボロの路線バスを1台7万円で2台購入し、農場のそばに運びました。座席をとっぱらいバスを住処とするために。僕らが農場のそばに来たからといって、一旦病気になった菊がもとに戻ることはないのですが。

そうこうするうち、友人は持病の肝炎が悪化し、小倉に戻ることになりました。それはそれは嬉しそうにしてましたね。僕は何はともあれ最後まで見届けるつもりでしたので、爺さんと二人で作業だけは続けました。

梅雨も明け、ハウス内の菊は河原に生い茂る雑草のようになっていました。病気にかかってないだけ、雑草の方がましかもしれません。誰がどう見ても失敗は明らかでしたが、往生際悪く作業は続けていました。8月に入ると菊は一応花を開き始めました。ただし、大きさはバラバラ、茎はぐにゃりと曲がり、葉の裏は病気で真っ白。とても売り物にはならないと感じました。

その年の夏、九州地方は大型の台風がいくつも通り過ぎましたが、その中でも特大の”一発”が大分を直撃しました。僕は、その一発にとても期待をかけていました。もし菊が中途半端にもうけを出してしまったら、懲りない大人たちが、”まだ続ける”と言い出しかねないので、正直二度と立ち直れない大失敗に終わって欲しかったのです。

夜半から明け方にかけて特大の台風が通過し、まだ吹き返しの風が強い中、期待に胸を膨らませハウスに向かいました。そこには、かつてビニールハウスであった物の残骸が横たわっていました。雑草のように繁茂していた菊も全てなぎ倒されていました・・・・。

菊の最後を見届けた僕は、大分を去りました。懲りない出資者は、「じゅんちゃんには中国にいってもらう。そこで現地の人を安く雇い、菊を大量に生産し、日本に輸入する!」と、とてつもない事を言ってきましたが、丁重にお断りさせていただきました。

体調が回復した友人と僕は、今後の事を話し合いましたが、結局安易にも”東京に行けば何とかなるやろ!”ということになり、まだ暑い9月の初旬、友人の車にキャンプ道具を積み、僕はカワサキのオフロードバイクにまたがり、現金25万円のみ握りしめて、何の当てもない東京を目指して、山陰の海を眺めながら、国道をひたすら北上していったのでした・・・。

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