祖母のエピソード
写真の人形は祖母が作ったものです。祖母は50歳から和紙人形を作り始め、70歳を過ぎてから度々、彼女が住んでいた福岡で個展を開きました。北九州市では有名な老舗デパート"井筒屋"の呉服売り場でも何度か個展を開いています。
当時の呉服売り場の部長さんが祖母の人形に惚れ込んで、場所代は無料で個展を開いてくれたそうです。
祖母については多くのエピソードや”名言(迷言?)があり、これからちょくちょく和紙人形と一緒に紹介していこうと思っています。
個展の後、色々な人から人形を売って欲しい、譲ってほしいと度々懇願されたようですが、滅多に人に譲ることはなかったようです。昔の作品でもいいから欲しいと言ってくる人に祖母はよく言っていました。
「昔の作品は自分自身が気に入らない。気に入らなくて捨てるようなものをあげたとしても、それはあげたことにならない。今の作品は自分が気に入っており、人にあげるのは惜しい。だから自分は滅多に他人に作品を譲らない。」
祖母独特の考え方ですが、僕には共感できます。祖母は非常に気が強く厳しい部分もありましたが、叱る時はきちんと筋を通しました。沢山叱られましたが、不思議と悪い思い出ではないんですよね。また、子供であろうが、大人に対するように日常の話から哲学まで様々な会話をしてくれました。
僕は幼いころ、両親の仲がうまくいかず、母親はしょっちゅう体調を崩していたので、祖母の家にあずけられることが度々ありました。このことは僕にとって非常に良かったと思っています。祖母の態度や、考え方からは良い影響を多く受けましたので。
祖母は若い時から気が強く、嫁の貰い手が中々見つからなかったそうです。若いころの写真を見ると、宝塚歌劇団の男役みたいで、美人ですが確かに気が強そうです。そこで、祖父に白羽の矢が立ったとのこと。「あいつなら何とかなるだろう」と(笑)。 祖父は穏やかですが、中々器の大きいいい男だったようで、頑固な祖母を上手くてなずけたようです。
ある日、祖父の友人が二人の家を訪ねると、祖父が祖母の髪を櫛でとかしてあげていたそうです。戦時中の、しかも男尊女卑の気質が強い九州の田舎でもあり、友人はかなり驚いたのですが、祖父はそういうことは全く気にしない性質のようでした。
結婚後、二人は当時日本軍が支配していた満州に渡り、母親はそこで生まれたのですが、満州時代のエピソードはまた次回。